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2004年12月07日

工事で雨戸が勝手に閉ざされた真っ暗な昼の闇(12/7)

6日にカウンセリングを受けました。
ここの初回無料電話カウンセリングです。

もっとも初回無料とはいえ
いけるかなーと思ったら(何が)面談カウンセリングもしてみたいと思ってのことなので
今回初めてここのサービスを利用するに踏み切ったわけですが・・・

カウンセリングそのものは初めて受けるわけではありませんでした。
あれも恐らくは2002年頃のことだったと思います。
心療内科に通っていた頃そこの医院に来ているカウンセラーさんとお話をしたのですが、
大幅に自分を変えたい、でもどうしたらよいのか。という昏迷の中にあったにもかかわらず
お話をうんうんと聞いてくれる感じのカウンセラーさんで。
何か決め手に欠けるままにひょいっとすっぽかしてしまいそれから行けなくなりました。

今回利用のカウンセリングサービスでは
"具体的な方法やアプローチを提案する提案型カウンセリング"を
実施しているとの案内もサイトの中にあったので期待を抱きながらの利用。でした。

さて結果は・・・

実は私ここのサイトの「心理学講座」をほぼ読破しているのですが
その過程で行ってきた自己分析と、実際カウンセラーさんとお話した感触はさほどには変わらない。
やはり一人でできることよりもう一歩進めたところでの具体的提案を欲してしまうわけですが、
そこは初回&無料の限界なのかもしれなくて。
初めてお話するカウンセラーさんなら何人でも無料適用のまま話せるそうなので、
カウンセリングそのものというより自分に合ったカウンセラーさんを探すためのお試し
といった位置付けになるんだろうなあと再確認しました。

自己分析で知ることのできなかった点についての新たな気づきの部分としては。
自分に厳しすぎる
ということを言われました。
甘いと思うんだけどなあ。限界点低く取ってますよ。
でも
もとは自分に甘い→世間的に受け入れてもらえない→厳しくする→
厳しくしすぎて負荷→より破綻に近い位置に自分を追いやる
って感じなのかなあと思いました。

分かったとこでじゃあどうするんだっていうと厳しくしない方がいいらしいです。

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一夜明けて。
別のことでカウンセリング受けてた筈だったのに
自分の素の感情が何であるかを早めに気づけるようにセンサーをONにしておきましょう
といった感じの話を受けて
私がONにしたセンサーはまず「今の仕事やっぱ全然行きたくねーや」
という内なる声を察知してしまったのでした。

現場自体が嫌なわけじゃないとかこれが途切れたら生活立ち行かないじゃないとか
そういう理由もあってずっと我慢していたけれど。
もともと全く仕事に対して気力を向けようのなかった時期に
それゆえ軽めのところがいいと言っていたのに意に反した重めの現場を持ってこられて、
面接を受けて通ってしまえばもはや気に入らないとも言えず
始まってしまえば「だってやるって自分で言ったでしょ」と会社からは言われて言い分も通らず。

YESって言ったんじゃねーよNOを言わせてもらえないまま押し付けられただけだよ。

そんな風に始まったから、別の点で躓いた時に噴き出した不満。
現場にしてみりゃいい迷惑ですよねぇそれはわかります。
でも決まっちゃったからしょうがない頑張りますって思えるほどには割り切れてなかったんです。

なので「今の箇所が終わったら抜けたいです」と結局自分から言いました。

「次こそはと思っているから
かえって会社を辞めざるを得ない方向に自分で向かってしまってるんです」
とも言われた。カウンセリングでは。

投稿者 narukami : 14:41 | コメント (2) | トラックバック

2004年12月09日

カウンセリング 2人目(12/8)

無料お試しが利くことに図に乗って別のカウンセラーさんともお話をしてみることに。
やはり面談の可能性も見据えたいので、関東在住の女性のカウンセラーさんから
当面悩んでいることについて得意分野としているらしい人を選んでみると。
運良く今日電話して今夜の予約が取れました。

さて今回の結果は・・・
うーん、喋りすぎる人でした(苦笑
これが提案型なのかッ!!

最初はオーソドックスに家庭背景の話なんかしてました。
例えば私は心的に近しい人(あるいは近くあって欲しい人)であればあるだけ
無条件の肯定や理解を要求しがちな傾向にあるんですが、
(の割には「お前のためなら死ねる」とか言う人には('A`)あぁ?とかいう反応を返したりもすr
情熱家はあつくるしいんですよ。しかし実は穏やかで公正冷静な人に惹かれるという自分の好みは
ナルカミさんの性格的には茨の道だったと思いますよー、と前回のカウンセラーさんに言われた)

家族愛という観点からこの病理(?)を見るとするなら
・家族愛に飢えて育った人
・家族愛をふんだんに受けて育ったので
 周りの誰もがそういう質の愛情をくれて当たり前と思っている人
の2パターンに分類することができるようで。

後者の方は言われるまで想像してなくて、
特に愛情に飢えて育った覚えもないのになんでこんななんでしょおかしいなー
といつも思っていたのでなんか「ああ、そっちもありか」とポンと膝を叩きたくなる気分に。

とはいえ愛情に満ち溢れて育ったらもっと
まっすぐで僻みや歪みのない人格が形成されてしかるべきではないのかッ!?

しかしこの辺は客観的に見て愛情を普通に注がれて育ったかどうかではなく
主観上で満足できていたかどうか、の方が問題らしい。

まあ親嫌い嫌いと言いながら普通に大病もせずに習い事もさせてもらい大学出て就職できて
特に声高に言えるような不満はないつもりでしたが
小学生くらいから既に親と何かを対話することを諦めていたことなんかを思うと
やっぱりそれなりに不満は抱えていたような気がする。

そこからアプローチは次第に予想外の方向へ。
行動と思考が乖離している人というのはなにやら
それまで抑圧してきた感情が澱の如く凝り固まってしまっていて
それが行動と思考の自由な行き来を阻害しているものなのだそうで。
切りたくないのに手首切っちゃう、会社行きたいのに体が動かない、とかの人は
その澱を取り除いてやることで行動と思考を一致させられるようになったりするのだと。

と、こうなってくると宗教とかそっち系っぽく見えるかもですが違うんですよぉー、
と本日のカウンセラーさん。
電話でのカウンセリングで出来るのが普段の生活の中で認識の変化を促すものだとしたら
面談形式のセラピーでできるのが深層心理に働きかける形で変化を促すもの、なのだそうです。
その人がやってるカウンセリングはそういう感じらしい。

うーん、でも認識の変化がちゃんと意識できる方がどっちかといえば好きかなぁ・・・(苦笑
だって「なんかよくわかんないけど変わりました私!」とか言ってもーなんかー(何
無意識に変わるのってちょっと部分的に自分自身じゃないような気がするというか
あれだ、整形して自信がついて性格が明るくなるとかそういうのに近い話に聞こえてしまう。
まあそれでも結果良ければオーライではあるのだろうが
やっぱ「大嫌いな弱い僕」も置き去りにしないで一緒に幸せにしてあげたいじゃないっすか。

それでも割と劇的な変化が起きるらしくそういう事例も紹介されて確かに興味は惹かれたものの
カウンセラーさんの話が微妙にわかりにくいというか
事前知識があって「あ、こういうこと言ってるんだろうな」と
こっちが補いながら話を聞く感じだった面もあり
気持ちに沿ってもらう、とかそういう感じではあまりなかった故、
この人に委ねてみようかと思うには決め手に欠けるのでありました。

あと面白かった話としては
感情の澱を溜め込んで出しもせずそのことに気づきもせずに放っておくと
だんだん抑圧した感情がオーラのようにその人から滲み出るようになって、
同じ感情を抑圧している人を知らずと惹き付けてしまうらしい。

ので私の周りには何か抑圧した怒りを溜め込んだ人が居るらしいですよ!!(ぇ

投稿者 narukami : 02:00 | コメント (4) | トラックバック

2004年12月24日

認識の向こう側にあるもの(12/22)

髪を切りました。といっても5cmくらいなんで全然。まだロンゲです(ロンゲちがう
4月以来の来店ですねと言われてびっくりしました。夏に一度行ったつもりでいたから。
お気に入りの美容師さんが1月で辞めてしまうそうで、
そうなったらもうどこの美容院行ったらいいのか。また放浪の日々が始まります。

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先日、無料電話カウンセリングで3人目にあたるカウンセラーさんとお話をしてみました。
「何をしてでも変わりたいですか?」と最初に訊かれて「はい」と答えると
「うんまずそれが言えないとダメなんですよ〜」と朗らかな声が返ってきた。

この人が結構当たりっぽくて。

例えば「恋人には一緒に居てほしい」と言うとすると。
「それはどれくらいの時間一緒に居たいのか」という問いが返ってくる。
「1日中?1週間のうち何日?毎日?仕事のある日でも?」とたたみかけられるうち、
「え、えっとそこまでじゃなくても」とひるむと。
「自分で具体化できていない要求を人につきつけても相手も交渉のしようがないし、
そこで『なんで一緒に居てくれないの』と不満をぶつけたとこで
どれくらい一緒に居たら満足なのか相手にはわからない」と言われるわけです。

ほー。

何かこちらが問題提起をすると、決して「どういう風に?」とか「どうしたらいいと思う?」とかいった
漠然とした問いを投げてよこさない。
「どういう状態になれば○○ってことだと思う?」だとか
「○○にするためには何が必要だと思う?」とか
こっちがまず具体的にイメージしなければならないような問い方を用いる。
つまりそれは普段どれだけ自分で"わかってるつもり"になっている
自分の希望や欲求について、人に説明できる形になっていないかということを思い知らされる。

他に私的な指摘(いやそのあの)としては、
・「お父さん」(まあ心理学的に言うとアニムスなんだが)とうまく折り合えていない
・傷つくというのは投影の問題であって当人がどう受け止めるかだけなので、
 ひどいことを言われたから傷ついたのではなく
 気にしている何かに触れられたから傷ついたのだと知れば傷つくことで相手を恨むことはなくなる

この人いいかもー、と思い。面談カウンセリングをやってみることにしました。

これがまたものすごく面白かったのです。


「ふられたときに食事も喉を通らないほどぼろぼろになったとしたら、
それは相手のことを本当には好きではなかったのだ。」

えぇー普通すごい好きだったからぼろぼろに凹むんじゃないんですか!

そのこころは。
相手から愛情をもらえると思ってたのがもらえなくなったことで
それに対し裏切りのように感じたりプライドを損なったりしているだけで。
自分がきちんと愛情を相手に与えることができていたら
ダメになったことを多少悲しみはしてもそんなに身体影響出るまでに至らないという話らしいのです。


あと。
「私わがままでものすごく怒りっぽいんですよ」と言うと
「・・・全然そんな風に見えませんよ?会ってみた感じ優しそうだし冷静に自己分析してるし。
具体的にはどんなところでわがままを言って怒るんですか?」
と訊かれる。
事例あげてみる。
「んーでもそれは怒るのももっともなのでは?」
いやだってそれは私視点でモノ言ってるから!!あと頻度とか伝わってないから!
「自分にとってはもっともな筈のところで怒って、でもそれを人から否定されてきて、
怒ることそのものにものすごい罪悪感を持っていませんか」 
・・・。

というわけで愛情って何はたまた友情って何、
怒るって何怒っちゃいけないのは何故どうしてどういうとき?と
今まで自分がもってた認識にさんざん揺さぶり入れられて帰ってきましたよ。
いや不快さはなくて面白かったんだけどね。面白いんだけどこれからどうしたらいいのよー、って感じ。

多分ね。「それは好きなんじゃないよ」とか「それは怒っていいんだよ」って
言われたようで言われたわけじゃない、
ただ自分が信じ込んできた認識から一度解放されて
その上で見つめ直すためのステップなんだと思う。


自分的にはヒットしたので割と人に勧めたい心境です。
まあ値は張る上に1回で終わるとは限らないとこが財布に優しくないんですが・・・。

---

そういう背景もあり。
これまでなら抑圧してきたとこでしなかったらどうなるのかな、
という実験ってわけでもないですが
自分でも手探りで進むような思いで
久々に抑えないでストレートに人前で怒ってみたのが清算の話です。
そういう私的事情に巻き込んでしまった部分もあるって意味ではごめんね皆さん

お蔭で抑圧しながら怒ってた間は気づけなかったことがわかったり。

投稿者 narukami : 02:10

2004年12月29日

12/26

カウンセリングの一環でグループセッションを行う会合に参加してきました。

あまりこういう場で詳しく書くのはまだ少し早い気がするのと
個人のケースはあくまで個人のケースなので
(とはいえグループセッションやってると
「表に出てくる個々の問題は違ってても根底は皆一緒なんだなあ」と
実感できたりもするものなんですがね)

表立っては書きませんが、
いろいろな問題の根になっていたこと、
これまで枝葉で理解していたことの根幹を人の手ではっきりさせてもらえた気がしました。

ちょっとだけ言ってみりゃ仕事続かないのと恋愛下手なのの根は一緒なのです。そうらしいです。
自己コントロールが下手とかいうのも立派にその理由ではあるんですが、
そこら辺は枝葉なんです。

しかし根幹がわかったとしてもそれはもうn年分の蓄積なので、
正したくても今日明日でどうにかできることではありません。
明日から仕事探せるか、って言ったらまだそうポンと動けるわけではないですし。

憑き物が落ちたように、とか
そう劇的に何かが変わったわけでもないです。
だけど同じものを見たり聞いたりしたときの感じ方が
少しずつ違うような気がします。

下手に完璧主義者でもあるから
すっかり変われないと先に進めないような気がついしちゃうんだよな。


ひとつ笑ったのは
「あなたが惹かれるのは超自立型の人ね」なんて話を
カウンセラーさんと前に単品で話したときに言われてたんだけど

グループセッションの中で自分がペアを組みたい人を一人選ばなくてはならなかったのだけど
まだ殆ど自己紹介すらしてないような段階で
この人と話したい、と感じた人が
女性だけどやっぱり超自立型だったんだよね。自制の強い感じの。
自分は直感的に目の前の人の人柄とか考えてることとかを感じ取るのは鈍い方だと思ってて
それゆえ人と話すときに「直接会う」という形式をとることに
あまり意味を見出してなかったりもしたんだけど、
それでも人を見るにあたってのその手の嗅覚ってのは誰しも備わるものなのかなと思った。

まあその人とは成り行き上組めなかったのですが
「G戦場ヘヴンズドア」を勧めてきちゃいました。(・∀・)エヘ

---

その後打ち上げがあったので久々に日本酒。
最初から最後まで日本酒で突っ走った方が酔いもすっきりしてるし
内臓に負担も少ない(こっちは気のせいかもしれませn)ことを今更ながら実感。

投稿者 narukami : 02:25 | コメント (0) | トラックバック

2005年07月19日

三連(7/16-18)

三連休は早寝早起きしつつびっしりと合宿状態だったのです。

何人もの人と出会い、いくつもの気づきといくつかの悔恨と共にあった三日間でした。
怒りや不安、そして心が閉じてしまう瞬間は何を引き金にやってくるのかということが
これまでよりはっきり見えるようになり。
そういう自分を見守っていてくれた人と自分が見守ってあげたい人が居て。
遅れた七夕用の短冊にはどうしても自分のための願いが書けなくて。

いつまで続くか分からないけどATフィールドのゆるんだ状態になっております。

同じような文字で言葉を発してても言ってる側的には気持ちが違ってたりする。
でも普段の様子から見たらこれ怒ってる発言に見えるんだろうなあ怒ってないんだけどね、
いやあネットこわいなー(笑)だなんて珍しく思ったり。
現世に戻って少しずつこれが通常状態に戻っていくのが何か勿体無い。

カッコいいとか悪いとか自分がこれまで考えてつくりあげてきたものだって
180℃転換してしまう瞬間というのももしかしたら来るのかもしれないなあ。

投稿者 narukami : 02:18 | コメント (0) | トラックバック

2005年08月08日

種明かし(8/7)

カウンセリングに久々に行ったところ
「一人だけ兄姉とも年の離れた子だったので
家族の中で話が合う人が居ないという孤独感があったのでしょうね」
という話をしてもらいなるほどと膝を打つ

そう考えると最近のエントリ(こことか)でたびたび触れている幼馴染の人に
どうしてあれだけ夢中になっていたかが簡単に説明がついてしまう気がした。
彼は相当に頭もよかったし
おそらく(出会った当時)小学生にしては過剰に大人びていたのだろう。
そして私も年上の人間にばかり囲まれていただけに多分相当ませた子どもであったろうと思うのだ。

つまり彼は私にとって
生まれて初めて出会った精神年齢も実年齢もほぼ等しい友人
だったことになる。

うわあそりゃ夢中にもなるわなー。
確かに異郷の地で自国の言葉が通じる人に会ったような感覚を抱いてたこともあったもの。
(いや異国に出たことないですけどね!)

また"互いに楽しくて盛り上がるからこそ夢中になった"わけでは必ずしもなくて
主に私側の一方的な思い入れから来るものであったことも
向こうは長男で両親も若くて家族仲も良いし
同じような心的背景を抱えてはいなかったんだろう、と考えれば至極納得というものだ。

投稿者 narukami : 11:02 | コメント (0) | トラックバック

2005年09月14日

アサーションというものが流行っているらしい(9/14)

昨日、欲しい本があったので本屋に寄ったら
アサーションという語がタイトルについた本が平積みにされていた。
どうやら流行っているらしい。

さて、アサーションとは何なのか?

エラーのないプログラムを作成するための一つの手法
…という意味もあるらしいのだが
ここで採り上げたいのはコミュニケーションの技法として用いられる場合の方。

自分の主張を素直に、かつ相手を尊重しつつ、
誰の心証を害することもなく表現することを
アサーションと言うようだ。

一見簡単そうだが、これが案外難しい。

頼まれごとがあったとき、気は進まないが断るのは悪い気がして承諾してしまうとか。
断りたいような頼みごとをされた時、なんと気のきかない人だろうかと相手に怒りを覚えたりだとか。
部下に作業指示を出したところ、自分の期待した通りに作ってくれなかったので
使えない奴だなと感じたりだとか。

これらが、アサーションのできていない状態である。

アサーションができないと、
嫌なことを無理やりやる羽目になって自己嫌悪になったり
嫌なことを無理やりやらされていると感じて不満の矛先が相手に向かったりするわけである。
期待したのと違うと言ったり作業指示を出し直したりするのは自分もめんどくさいし
相手に嫌な顔をされるのも怖いから相手が無能なせいにするんである。

嫌なことを嫌だと言えて角が立たずに済ませられるなら
これほど楽になることはないだろう。

具体的な手法は…ここでは紹介しない。
一口で表現するのが難しいのと、自分でもこれから取り組んでいく課題だからである。
もし興味の湧いた方がいらしたら大きめの書店で心理学のコーナーを覗くと
平積みの本を各種確認することができるだろう。
あるいはWeb上ででも
関連コンテンツをいくつか探し出すことができると思われる。

ちなみに私が買ってきたのは『この一冊』。

投稿者 narukami : 11:54

2006年01月22日

1/22

空気は読めるけれども我慢もしない
人の気持ちを察するけれども遠慮もしない
嫌われることは恐れてないけれども根底には愛(←ここが一番のポイント)

そんな人(女性)が居たのでその漢気に一発で参ってきました
ああいう人になりたい

投稿者 narukami : 21:43 | コメント (0) | トラックバック

2007年07月19日

「つまらない話をする女がいやだ」と増田に昔書いたら「それにうまい合いの手を入れて面白くできるのが会話上手というもの」とコメられた故事を踏まえて(7/19)

時々書くこともある通り、心理学関係のワークショップに顔を出すことがある。
そちらで知り合った友人で、二人ほど「普通の人と話すと常識で凝り固まっていたり愚痴や不平ばかりだったりするので疲れる。心理学関係の人と話してるとそんなことはないから楽」ということを最近言っているのを目にした。うち一人は心理学のワークショップの話をしたら「やだ〜あやしい宗教かなんかじゃないよね?」と言われたらしい。まあ、よくある反応だ。
好きでやっているものへのステレオタイプなイメージによる否定だとか、そこに終始して発展性のない愚痴や不平だとか、ガチガチの価値観だとかを前にして、よい気分でいるのが困難だというところまでは理解できる。けれどそれらを否定する側に回ってしまったら、たとえあやしい宗教だと言われてもやはり否定できないと思うのだ。「別の」凝り固まった価値観を手に入れただけじゃないか、と。
心理学でも宗教でもマナー様でもなんでもいいが、人を縛るためにではなく人を救うために、暗いと不平を言うよりも進んで明かりを点けるためにそれらは存在しているわけで、昔は不快に感じなかったものを不快に思い、またそう思うことを正当化するために存在するわけではないだろう。
けれどそういうことを彼等に直接言う勇気はない。腹を割って話せるほど親しくないので、伝わらず否定されることの方が容易に想像できる。それは私も怖いのだ。だから、これも、愚痴です。

投稿者 narukami : 15:31 | コメント (0) | トラックバック