2007年07月19日

「つまらない話をする女がいやだ」と増田に昔書いたら「それにうまい合いの手を入れて面白くできるのが会話上手というもの」とコメられた故事を踏まえて(7/19)

時々書くこともある通り、心理学関係のワークショップに顔を出すことがある。
そちらで知り合った友人で、二人ほど「普通の人と話すと常識で凝り固まっていたり愚痴や不平ばかりだったりするので疲れる。心理学関係の人と話してるとそんなことはないから楽」ということを最近言っているのを目にした。うち一人は心理学のワークショップの話をしたら「やだ〜あやしい宗教かなんかじゃないよね?」と言われたらしい。まあ、よくある反応だ。
好きでやっているものへのステレオタイプなイメージによる否定だとか、そこに終始して発展性のない愚痴や不平だとか、ガチガチの価値観だとかを前にして、よい気分でいるのが困難だというところまでは理解できる。けれどそれらを否定する側に回ってしまったら、たとえあやしい宗教だと言われてもやはり否定できないと思うのだ。「別の」凝り固まった価値観を手に入れただけじゃないか、と。
心理学でも宗教でもマナー様でもなんでもいいが、人を縛るためにではなく人を救うために、暗いと不平を言うよりも進んで明かりを点けるためにそれらは存在しているわけで、昔は不快に感じなかったものを不快に思い、またそう思うことを正当化するために存在するわけではないだろう。
けれどそういうことを彼等に直接言う勇気はない。腹を割って話せるほど親しくないので、伝わらず否定されることの方が容易に想像できる。それは私も怖いのだ。だから、これも、愚痴です。

投稿者 narukami : 2007年07月19日 15:31 | トラックバック
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