幾分私信風味∧チラ裏で。
距離感を調整したい人に対して「多少スルーしたら?」という意見をいただき。
何故かスルーできない!!にたびたび陥りがちなのでちょっとそこを考えてみて。
多分
スルーすることに対する抵抗感が強いのは
過去、理由がよく分からないまま他人が離れていったケースに対しての
悲しみや怒りがあまりに大きかったからだと思います。
(それ自体は執着の大きさや想像力の欠如がもたらしたものだと思いますが
そういう背景が分かったからといって即刻傷が癒えるものでもないというか)
だから人にそれを絶対やりたくないって思ってる部分がある気が。
それはそれとしてコメント貰ったときの返しをきっちりするとかは
携帯メールを返す等よりももう少し処世術的な意味合いが強くなる気がします。
どういう発言にどんな応対してるかってのは人からも見える部分だし
できれば整合性が取れてる方が印象はいいかなあと(とか言うほどには気使えてないけど…)
あと「言いたいことを直接言う気がないのにWebを介して訴えて伝わるのを期待する」
のはやらないガイドライン(何)だったのを思い出しました。
といいますのも
昔「(周囲の人間の具体的行動を指して)○○って最低!!
ここ読んで心当たりのある人は反省してください」
とかWeb日記に書いてる女が居まして。
それでいて(別件で)当人と対立が起きたので直接対決しようとすると
これがなんだかんだ理屈をつけて土俵にあがろうとしない。
喧嘩買うのはいやがるのに安全圏から売るだけは売るみたいなのは
やっぱ格好悪いよなあと思うのです。
そら誰だって傷つくのやコストかかるのはイヤですわ。
でも対価は支払わないわけにいかない。等価交換。
なので結論としてはやはりちゃんと話す方向になりそうです。
ただしメールとか使うと不慣れな人であればあるほどコスト甚大なのでさすがに対面で。
うまいこと雰囲気を和らげつつ真意を伝えるとか
一線引きつつも相手に不快感を持たせないとかその手のスキルが欲しいですわ。
シリアスに訴えるしかできなくて挙句
不快にさせたんじゃないか的罪悪感からついまた相手に甘くなって、
そこでまた距離感がおかしくなるループだとかもうそういうのはだるいにもほどが(苦笑
関係ないけどAさんは格好よかったなあなんて思い出しぽわわ。
だって俺様で皮肉屋なのにヒーラーですよ!?ギャップと偽悪に弱いのです。
とはいえ一番弱いのは「僕は偽善者ですよ?」みたいな偽悪ですが(なにそれ
ちなみにガイドライン(何)の通り
ここを見ている(と私が認識している)誰かに対して距離感云々で不満を持つ話ではございません。
その場合はそれとしてきっちりコストかけさせていただきますんで。はい
「どんな意見を私が持っているかということを、最初に知ってほしいのです。
それがあなたと異なっているという事実はあなたの意見の否定を意味しません。
それは対立の始まりではなく、共存の始まりだと私は思っています。
だからどうか、言葉の多くを飲み込んでしまおうとしないでください。
それを私が望んだことはありません。」
…実はこれ、愚痴なんである。
相手が途中で口を噤むようなら、それはそれで
どこかで拒絶の態度を感じさせてしまっているということなのだから。
受容なら受容をメタメッセージとして発することができなければ
言葉でいくら受容する心づもりを主張しようと相手は心を動かしてはくれない。
…さて。
「自分はこう考えている」と普段思っているはずのことが
感情の動きや外部から与えられた情報によって揺らぐことがある。
揺らいだ後に元の地点に戻ってこられればいいが、
揺らいだ状態のままで表現してしまう場合がしばしばある。
オセロは疑念によって揺らいだ状態の思考をどんどん外部から強化され、
やがては揺らいだ思考に本来の思考が凌駕されてしまった。
それは所詮「揺らぎ」なのだ。
本来持っていた思考が根本的に変化したわけではない。
けれども一旦表現されてしまえば、それがその人の思考であると大抵の他人は受け止める。
揺らぎだと認識せずに表現してしまったら自分自身も揺らぎに取り込まれがちである。
怒りに任せて発言するな、というのはつまりそういうことなわけで。
ヒトなので全く揺らがずにいることは困難なのだが、
せめてそれが揺らぎに過ぎないと早めに気づけるようでありたい。
人の助けを借りても構わない。
揺らぎを時に指摘し時に見て見ぬ振りをしてくれる友人の存在に感謝を。
<add>
宇仁田ゆみの『祝!できちゃった結婚』の中で
子どもさえいなければ的な事を女が口走りそうになるとこで
「そっからは○○の本心じゃないから言うな」って旦那が口を押さえて止めてくれるのです。そんな感じで
妊娠中と既に子どもが生まれてる状態の別はあるものの
近いシチュで逢坂みえこ『ベル・エポック』だと
その言ってはならない台詞を口走らせちゃうんですよねえ。
その辺が宇仁田は女子ドリーム全開だなあ(何
</add>
固定観念に縛られることや視野狭窄の可能性を打ち崩すために他者が居/要る。
―で、二人でいれば混然としていられるのだが、人目にさらされるとそうは行かない。二人っていうくらい、微妙な関係はない。それは他の誰かが、「あいつこう言ってたよ。」というだけで、余裕でグラつく関係じゃないかと思う。そして二人でいる人たちにすかさず貼られるレッテル−「仲が悪い」。オーケー。世の中のすべての二人組を代表して言っておこう。「お前らに言われる筋合いはない。」以上。―(小沢健二「無色の混沌」 Olive 連載『DOOWUTHALIKE』'97.12.18. より抜粋)
だからこそ。
片方が赤と言えば黄色と言い張り、水と油。平行線は続く。そんな二人組の方がいいじゃない。
でも全然意見が合わないままではまず最初に二人組を形成するきっかけすら発生しないのだよね、
と思うと、やはり好き勝手言ってもグラつかないだけの信頼関係なり共通の目的意識なりを
初期に強固にしておく必要がある、ということで。
---
結論としてはバッドエンド。ちょっと自分側の心情を表現するのに言葉を尽くしすぎたかも。
言葉を選んだ結果の言葉足らずによって曲解されると猛烈に後悔してしまいがちなのだが、
かといって言い過ぎるのも
相手を責めている/相手の心情を無視してるように思わせるのでよろしくない。
下地となる信頼関係が十分でないのだから、理解されたきゃ隗より始めよと。
寝る前に書きたいことを少し思いついたのだがそのまま寝てしまったので見事にわからなくなった。
「自然となんか言いたくなって言う」のは気持ちがいい
「あーなんか言わなきゃ」「つか言ってほしいの?」は大変だるい
問題は後者のときスルーするのに罪悪感を持ってしまうところです
自分がそうしたくて返事するだけなら何ら問題ないんだけど
そうしないと悪いような気がして返事したくないのに返事して
挙句疲れて逆ギレへ向かったりするのはやはりあまり健全ではないからね
気が合う人ってのは結局「自分に快をもたらす方向へ動いてくれる人」のことか
(いや悪意で言ってるわけじゃなくて。しかしこれも大雑把な表現だなー)
好きでも嫌いでもない、特に害を及ぼさない人に「好きではない」と明言すると余分な作業が発生する。
"好きでも嫌いでもない人に親しげにされるのは何となく居心地が悪い"と思っていても
その居心地の悪さと余分な作業の面倒さを天秤にかけた結果として大抵は何もしない。
逆に、面倒と感じない程度の作業で好意的な印象を与えられるのなら大抵はそれを行う。
<add>
ちなみに同じ「好きでも嫌いでもない人」であっても
関係が悪化することによって損なわれる人間関係があるのとないのとでは全く趣が異なる。
前者と表向き良好な関係を維持することにはメリットがある。
後者とはそれを維持しなくともデメリットは殆どない。(あるとしたら逆恨みのおそれあたりか?)
</add>
波風立てる派と立てない派の違いは、立てない派が"0"を目指していない限りは程度問題。
自他含めて最近のいろいろな動き(なんの)を見ててこんな風に思うようになった。
行動と理想(=言説)が一致していない場合、表れている言説よりは行動によって思想を評価されるのは当然のことでありながら、いざ自分自身がそういう評価のされ方に直面した場合"自分が本当は理想のようにありたいと考えている"ことを理解されていないように思えてそれがずっと辛かった。のだが。
理想と行動の不一致に自分自身苦しんでいる事実、またそれを理解されたいという欲求は確かに存在するのだけど、それはそれで万人に望めるものではないし一人に分かってもらえなければ別な人に話してみれば良いわけだし、理解してもらえたらそれで良かった筈が論破することで自説を認めさせたいという方向性に向かってしまったらそれはたとえ論破成功しても逆に感情的親和の阻害として働くよなあ、とか。理屈ではそういうことだろうなと思っていながらどうもしっくりきてなかったのだが、なんかもういっそ理解されたい病ならそれはそれで病人(何)らしくしていようという開き直りがようやく。
ちょっとした文章を書く際、どの知人層に何を伝えたいか?という点にも勿論左右されることだが、しばらく前までmixiを使うことが多かった。しかしそうやってmixiに何か書いた際、ついたコメントに対してどう返すかを考え過ぎて多少疲れを感じるようになったので、最近ははてダでいろいろ書き散らかして遊んでいた。mixiと違って基本的に人に反応されない(されることもあるけど)というのは随分お気楽なものである。しかしはてダ自体は一部のはてな界隈の人への売名のため(何)に始めたものなので(なのに書き散らかしっぱなしなのでいまいちやる気が感じられないとかいうのはさておき)あまりに反応がないのもさみしいようなそんな気がして何も言えなくて夏。冬です。
そこで気分を変えてはてな匿名ダイアリーに手を出してみたら特に釣りで書いたつもりもないのに早速はてブされたり叩かれたり持ち上げられたりした。そこでいくつか気づいたことがあった。
これまで、自分の文が下手で言いたいことが伝わらなかった場合や、そのために批判を的外れと感じた場合、基本的にそれに耐えられなかった。「そこはこう言いたかったんです」と訂正せずにいられないのだ。それはごく最近にもmixiでやったばかりのことでもある。
しかし今回は初めての匿名ダイアリーだったので、叩かれてそれを的外れだと思ったからといって中の人がのこのこ出ていくのもあまりに無粋すぎる、とおとなしくしているうち、はてブコメントにおいてある人は叩くけれどもある人は褒める、という感じで、受け手の意見がそれぞれに分かれていく様を目の当たりにした。特別なことでもなんでもないのだが、その事実を通して自分が「理解されたい病」から幾分解放されるような感覚があった。
誰か一人の意見が場全体の総意ではないことは理解しているつもりだった。だがその一人の意見が周囲に与える影響を随分大きく見積もっていたのかもしれない。だからたとえ一人にでも誤解されることを怖れていたような気がした。勿論、社会性が付与された場面でなら、匿名同士の意見よりはその手の影響が色濃く出ることになるのだろうけれど。
しかし一人わかってないくらいのことは実際そんなに気にするほどのことでもないし、気にしたからって何かを変えられるわけではないんだろうな、と。変えられるとしたらそれは少なくとも、「そこはそうじゃないんです」と言って回るような類の行動を通してではないのだろう。
1行まとめ:
匿名で好き勝手なこと書いたりそれについて意見されたりするのってしがらみから自由だからいいよね(いいよね)!!
追記:
とかいうことをやってるから論旨がぼけるのかそうか
追々記:
2chでその手の経験をしなかったのは多分いつもためらわずに「そうじゃないんです!!」って書いて「後付けでいろいろ説明するな」って叩かれてたから。