2010/01/04(月)
2008/07/06(日)
そろそろ『ラブロマ』についてのレビューをmixiから持ってきておくか
というわけで。
講談社
全員がここまで絶賛する作品も珍しい
輝いた青春
彼らの恋愛がいつまでも幸福であることを祈る
ボケとツッコミが基本の恋物語?
「では今日一緒に帰りませんか?
これ以上は譲歩できません」
DEMO TRACK(1巻の最初の話)にある
星野のこの台詞でこのマンガに参ったと言ってもいい。
そこまで星野の提案の数々を断り続けた根岸にとってもフットインザドア効果で
「いいよそんくらいなら」と思わせてしまう絶妙の落としどころ。
それを冷静で強気に、根底には好意を持って、出す。
要求の理不尽さとうらはらのためらいの無さ加減で肩透かしを食らわせ、
拒絶という防御体制を取っていた根岸を「なんだよ譲歩って」と弛緩させる。
弛緩は笑いを誘う。笑ったら、読者の負けである。心地よい敗北。
ようこそラブロマの世界へ。
…という計算を作者がどこまで行ったかは知らないが。
しかし星野自身はあくまで素、その言葉には表に現れた以上の意味や期待や阿りはない。
だから一方の根岸もただそれを素直に受け止めて素直に返せばいいだけである。
照れたり戸惑ったり突っ込んだり殴ったりしつつ。
テーマは"自らの想いに正面から向き合い恋人にもそれを正面から伝える"という
現実の恋愛で実行するにはそれなりに困難なものだが、
作品世界の中には悪意や過ぎた我欲が殆ど介在していないので
星野と根岸は狡猾さや臆病さで武装したり傷つけ合ったりする必要がない。
つまりラブロマは、素直で前向きにあることを許された楽園の中で
前述のテーマに没頭する二人を
微笑ましさやベタなギャグで幾重にもコーティングして描いた"安全な物語"なのだ。
(そのため読み手側は油断し切って読むのだが、
そうするとうっかり無防備な箇所を衝かれたりもする。何度泣かされたことか)
また、世評では
"男子側のドリームを具現化している"という記述が散見されるのだけれども、
現実のお年頃の男子というのは往々にして
みかん(=接触型コミュニケーション)のことは考えても
対話による相互理解(=非接触型コミュニケーション)のことは星野ほど真面目に考えないし、
彼女をここまで大事にしてくれること、そしてそれが常であることも
なかなかないだろうという気がする。個人差は無論あれども。
という意味で女子側のドリームもしっかり満たしてくれちゃってる気がするわけで。
勿論それもこの作品の魅力のひとつであることは揺るがないだろう。
とかなんかややこしく書きましたがどう見ても夫婦漫才ラブコメです。本当にありがとうございました。
2008/03/11(火)
沖さやか『マイナス』読了
特に最近のマンガでもないが勧められた(?)ことがあったので読んだ。
主人公は、表向きはきりっとした美人女教師でありつつ他人から嫌われることを異常に恐れる元いじめられっ子であり、嫌われないために性的に無軌道な行動や善悪の判断を無視した行動を繰り返すのだが、そこにユーモアがあるかというと非常に微妙である。かといって人間心理のグロテスクな面を描いたにしてはあまりに平面的すぎるとも感じられて、どうにも解釈に困ってもぞもぞする感じだった。
追記部分でもう少し詳細な感想を。
More...2008/02/14(木)
『ピアノの森』(2/14)
モーニング移籍以降の分(10巻~14巻)を久々に読んだ。
諸事情で不安定な状態で読み始め、最初は冴とカイの恋愛パートだったため多少そちらに感情移入して落ち着かぬ思いをしたものの、誉子がカイに会うためコンクールに出まくっていたくだりで腰が据わった。
求道する様は美しい。しかしそこに特定の人間に会いたいだとか認められたいだとかいう目的を絡めてしまったとき、音楽は必ずしも救いではなく呪いに変わる。けれどもその呪いによって再び救いに引き戻されもする。どちらが正しいとか過ちだとかではなく、密接に絡み合い引き剥がせない救いと呪いとが彼らの歩みを進めて行く。
そしてこの狂騒を私自身はおそらく半分だけ知っている。半分だからこそ知らぬ闇もあれば知らぬ快楽もあることが、この作中で描かれたショパンコンクールの様子によって際立つ。それが良かったのか悪かったのかは分からないが、確実なのはもう今生で残りの半分を味わうことは叶わぬということだけだ。
おそらく芸術とは、禍福の全てを呑み込む混沌の中、溺れながら天に向かって伸ばした手のようなものだろうと思う。