2007年05月25日

『ナチュラル・ウーマン』

精神的経験を重ねるほどに何度でも新しい発見のできる小説というものがある。

松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』をこのたび再読したところ
以前とは違った感想を抱いたので
去年にも少し書いたばかり(ばかり?)なのだが
今回も書き留めておきたいと思う。


前回は、花世と容子(に代表される二人)のうまくいかぬ恋について
二人ともに感情のまま動いていて拙いと感じるばかりであったのだが
今改めて読み返してみると、その拙さこそが非常に眩しく感じられた。

人や関係を大切にするというのは
行動を感情に任せきりにしないという分別を身につけることであり、
それは恋愛においては手綱から手を離し恋情に翻弄されるという愉しみを諦めることでもある。

勿論、分別を覚えたからと言ってなにもかもうまくいくわけではない。
我欲だってあるし負の感情だってある。
そういうものをなんとか飼い馴らしながら分別が目指すものは
あまりに地味でささやかな日常の幸せだ。

この二人の物語は若さゆえにそれを選べなかったという話なのだと思うのだが、
責任を取れるものなら選択肢としてはどちらを選ぶことも可能なこと、
そしてその上で分別を選ぶようになったことを自覚させられた。
どちらも選べるとはいえ、殆どの場合はもう戻れないのだ。

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相手の気持ちという結局は確かめ様がないものを
確かめたいという感情を止められないほど相手を好きになってしまった
花世さんがもー可愛くってねえ。

若い頃はこれを読んで頭でそれを理解しても描写から実感することはなかったなぁ
と思うと感慨深いです。
と同時になんと幅を持たせて書かれた小説なのだ、と感動を新たにしました。
共感できる奴だけ共感できればいいと言わんがばかりの
(しかし文体は読み手を突き放すことなくあくまで平易、けれども極めて繊細な)行動描写と、
誰にでも分かるようにという心理説明との両輪。
私が最も美しい文章を書くと思う作家の一人です。

そしてドライヤーを何に使うのかはいまだに分かりません。

投稿者 narukami : 2007年05月25日 13:08 | トラックバック
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