2006年07月25日

松浦理英子論-備忘録を兼ね-(7/24)

卒論は中島敦の「わが西遊記」に関する作品論だったのだが、
本来ならば卒論題材に採り上げたかったほど"熱を上げていた"作家がいる。

それが松浦理英子である。

何故卒論題材にできなかったかというとお上の(違)事情というやつでして。それはさておき。

自分にとっての松浦理英子作品はSM小説でもビアン小説でもなく、
「傷つけるという形式」ないしは「傷つけられるという形式」を介してしか
他者と密接な関わりを持つことができない、密接な距離感を保持することに耐えられない
コミュニケーション不全者たちの恋物語である。

「傷つける」「傷つけられる」という手法に拠らずコミュニケートする人々は「良民」に分類され、
手の届かぬ憧れとしてしばしば描かれる。
『乾く夏』の彩子は自分で相手を傷つけることへの恐怖から最愛の「良民」悠志を手放すし、
『ナチュラル・ウーマン』で容子にとって由梨子は"眩しいほど恋しい人"であるからこそ
「濡れタオルでぶって」なんてヨゴレた頼みはとても口にできない。
悠志ないしは由梨子と(恋愛)関係を結びたいのであれば、
「傷つける」「傷つけられる」という手法から脱却し対等な個人とならなくてはならない。

「傷つける」人々は一見醒めているように見えていても他者から理解されたいと願っている。
『乾く夏』の彩子が言う「一緒に死んで」という台詞は、
死と破壊への衝動(=デストルドー)を含めて全存在的に私を理解し肯定してくれという叫びである。
そして彩子はそれを受け入れてもらえないことに絶望しながらも、
決してデストルドーに支配されずまた暴力を介することなく彩子に接することのできる
「良民」であるところの悠志を求め憧れ続け、
またその一方でそんな悠志を自分が傷つけ損なうことに怯え自ら別れを告げるのである。

"松浦理英子の描くサディスト"が他人に加える暴力的な行為或いは言葉は、
相手を傷つけることを目的としてあるのではなく、
あくまでその相手との結びつきを求めるが故に発せられるのだ。

一方で、「傷つけられる」という手法を取る人々は、
傷つけられるという形で他者との関わりを求めつつも、他者には何も期待していない。
彼らの自意識は希薄であり、主従的な関係が生まれることによってのみアイデンティファイされる。

「傷つける」「傷つけられる」という行為は一見しては一対となっているため、
この二者の間では関係が成立するのではあるが、精神的にはかように乖離がある。
そしてこの乖離を埋める手立てが分からず、それでも関わり続けようとするあまりに
対となる(対になれる)行為をただ重ねることとなり、暴力は次第にエスカレートしてゆく。
その挙句に「二人でやれることで残っているのは別れることだけ」になってしまうのが、
作中の恋人達である。

こうした姿を女性の同性愛という形式をとって描くことで、
いわゆる情交に一般社会が付与している意味を全て剥ぎ取り、
二個の人間の関係においてその行為が持つ意味を過不足なく映し出しているのが
松浦理英子作品であるのだ。

参考:書評Wiki

投稿者 narukami : 2006年07月25日 01:57 | トラックバック
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