2005年10月03日

「ゼロの柩」(9/30)

金曜は友人に誘われて
ゼロの柩」という演劇を観に行った。


1970年代初頭に殺人を犯して死刑囚となった男。
当時は死刑囚は独房の中で小鳥を飼うことが許されていた。

小鳥を見つめながら自分が殺した女たちを思い出す死刑囚。
死刑囚が殺したのは自分の妻と愛人であった。
愛人は彼の子を宿し、妻と愛人はその日会う予定であった。

妻は鈍感でいつも自信なさげに男の顔色ばかり伺い、
しかし要らない食べないと言っても男の好物ばかりで食事を作るような女だった。

愛人は華やかで猛々しい情熱を持った女だった。
しかし男との当たり前の幸せに憧れるようになり、子を為し、認知を求めた。
役割とニーズがいつのまにか二人の間でずれてしまっていた。

死刑囚は妻と愛人をその日「急に会わせたくなくなった」のだという。

母親も父親も亡くし親戚に引き取られ
やがて大学生になった死刑囚の娘は
父親の話が訊きたくて、
父親を知る元看守に会うために東京から仙台へ向かう。

看守達は持ち回りで死刑執行を任命されるという。
ボタンを押したその日は、特別手当が出るのだという。

その手当てを全て酒に変え飲み明かす者、
賭博にぶちこむ者とさまざまであるが
この看守の場合は特上の肉を買って帰り、家族と共にすき焼きを食べるのだった。

死刑執行で受け取った手当てで肉を買うという一見ブラックな行為を
しかしその生真面目な初老の看守はシニカルな目を持ってではなく、淡々と行なう。
看守の妻は肉を受け取って看守に礼を言い、
既に出来ていた食事の支度を片付けてすき焼きの支度を始める。

何事にも夫を立て、風呂に入るのも必ず最後であるような控えめな妻は
そのすき焼きの肉にだけは真っ先に箸をつけるという。
看守が背負っているものを、分かち合うそれは儀式のようである。

「あなたのお父さんの死刑執行人は、私です」
元看守は死刑囚の娘に言う。

死刑囚も元看守も
等しく、他人の生をその手で閉じたことのある人間である。
一方は違法でありもう一方は合法であり、
それでも人の生を閉じる行為が彼らの上に影を落としていく。

娘は言う。
「お父さんはお母さんを愛していたんでしょうか?
どうしてもそれが知りたくて、恰好悪いけど私」

元看守は娘のその問いには答えられない。
元看守が知っているのはこれだけである。

死刑囚が小鳥につけていた名は、娘の愛称であった。

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以下、感想。

殺す者が殺される者になり殺す必然性の無い者が殺す者に回る中で
両者の対比の中で浮かび上がる単一のテーマがあって
それがもう少し強く表現されていたら尚良かったんじゃないかなんて思う。
なんとなく見た目の「らしい雰囲気」に流されがちだった気がする。

個々のシーンには引き込まれたしいろいろ感じるところもあり
総合的には「面白かった」という感想になるのだが、
いざこうやって全体を通じた感想を書こうとしたらいまひとつ明確にできないことに気がついてみたり。

とりあえず愛人役の人の脚が非常に綺麗だった。さすが銀座ホステス役(何
あと元看守の妻の人が上手くて。おばさんなんだけど
小さい声で喋っても台詞が明瞭だし自然だしこちらもさすがだなぁって感じだった。
(若い人は一部で滑舌が微妙な人もいたので)

ちなみに昨日が最終公演だった模様。

投稿者 narukami : 2005年10月03日 12:42 | トラックバック
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