『絡新婦の理』読了。
京極作品は『姑獲鳥の夏』と『魍魎の匣』に手をつけただけだったのだが
大人の男が少女にあれやこれやする話が多いですね、と言ったら
K先生に勧められた(?)のが鉄鼠と絡新婦。
よりエログロらしい、とのことから先に絡新婦を手に取ってみたわけだが
首謀者は直接手を汚さずして、情報操作などを用いて首謀者に都合よく物事が動くよう
次第に"駒"の選択肢を狭めていく手法はどこかで最近見た覚えがあった。
これも割と最近になって読破した浦沢直樹のMONSTER(94年〜01年)である。
もっとも、MONSTERの場合はヨハンという人間の天才性・怪物性をあらわす為
彼が首謀者であり、遠隔操作的に"駒"を操っていることが見え隠れするような描写を
ごく早い段階から用いている。
(またMONSTERにおいて最終的には整合性の取れた設計図を俯瞰することはできないのだが、
それはまた別の話となる)
絡新婦においては首謀者である「蜘蛛」の姿は後々になるまで見えない。
周到にそれとわからぬ計画を練り上げ縦横に糸をはりめぐらせた蜘蛛の
中枢に存在することが明らかになってもなお、その正体は最終幕まで明かされないと言ってよい。
蜘蛛にしかけられた罠に従って事件は次々に起きる。その構造はあくまで"Fail safe".
いくつかの不確定要素を孕み揺れ動きながら、事態はカタストロフへ向かう。
いよいよ京極堂が憑き物落としにかかる部分までは
凄惨な殺人描写に弱者への陰湿な陵辱、性癖異常者のオンパレードで、
正直文体そのものとは全く別の意味で嚥下するのに苦労する。
個人的には特に外科的描写に弱いため、鑿の使い方の話になるや寒気なしには読めなかった。
さて、少女にあれやこれやのくだりであるが、聞き及んで−或いは想定して−いたよりも
遼に淫靡であったのは単なるイメージの問題というわけでもあるまい。
憑き物落としまでは性的凌辱の対象が少女である、というだけの話であったようなものが
事ここに及んで少女偏愛や少女崇拝に至り、一見しては事件にはならぬこちらの方がうすら寒い。
作中にも確りと記されているが、少女というものの属性は女ではない。かといって勿論男でもない。
大人ともいえなければ子どもであるともいえない。
曖昧模糊としており、それでいて存在として際立っている。
男性原理たる西欧文明に照らせば女性の権利を無視した行為と見なされる夜這いも売春も、
女性原理に基づく文化のもとでは違う様相を持って見えてくる。
西欧文明的な思想のもとで戦う女権論者たちに対してそうした習俗の例を引き、
捩じ伏せるのではなく異なる救いをもたらす形で小気味よく論破していくその一方で
一方で「女」とは一線を画す存在としての瞬間の芸術「美少女」を唯一絶対の美とし崇める、
その少女礼賛者たちに犯罪者の隠れ蓑を着せながら。これが淫靡でなくて何であろうかと(笑
ますますもって澁澤先生を思わせるぜ。
澁澤先生ついでに。以下はごく個人的な話になる。
10代を過ぎ、性の対象としての異性或いは自分というものを意識する機会を持ったことが
引き金になったためか、フェミニズムに関する文献を読み漁った時期というのがある。
男視点の性幻想のあり方がどうしても理解できず、
自分にも分かる言語でそれを解明したかった。
膨大な文献の中に、自分の葛藤を晴らしてくれる答えがないかと日夜求め続けた。
編入転科しようとまでは思わなかったが、それくらいの勢いで「勉強」していた。
理解できなかったというのは許容できなかったと言い換えても良いかもしれない。
しかし解明したいという思いは十全な形ではかなえられることがなかったようだ。
現存する数多の性幻想を許容することは、
私にとって現世をしてはなはだ絶望的なものに感じさせた。
それでも生きていくため、なんとか折り合いをつけるために
"異質な思考回路を持つ相容れぬ存在"として男を規定した部分がおそらく私の中にあり、
それが今に至るまで続く男嫌いの一角を為しているようにも思う。
その頃から、澁澤龍彦の著作がそれまでのようには読めなくなった。
正直ものすごい損失なのだ。だってあの澁澤先生が下手するともう一生まともに読めないのだから。
今では澁澤龍彦の著書を手に取ることがあっても、ものによっては
何の衒いもなく傾倒できた15−16歳頃の読書の記憶をなぞっているにすぎない有様だ。
まるで機械の体で、かつて現し身があった頃の五感の残滓をたぐりよせているかのように。
可能であるなら取り戻したいと、思う。
『陰摩羅鬼の瑕』読了。
仕掛け自体はそう複雑ではなく、割と序盤からオチが見えている。
少しでも踏み込んで書けばあっさりネタバレになってしまいそうなほど。
それでもこんなにも哀しい話はないと思った。
憑物落としの際に、得心や恐怖ではなく悲劇性のあまりに身を震わせてしまう。
少し違う話になるが
私は『時計仕掛けのオレンジ』を観るとき、どうしようもなく辛く正視に堪えぬ気分を味わってしまう。
それにまつわる嫌な思い出があるというわけではなくて(あるにはあるがそのせいではない)
"過去の罪を贖罪しようとしても許されないという構図"を目にしたところで
過剰に感情移入のスイッチが入ってしまうのだろう。
映画の本筋を考えるならそういう引っかかり方をするものではないだろうに。
少し違う、と書いたのは陰摩羅鬼においてはまさにその哀しさは本題たりうるからなのだが。
京極堂シリーズはいつも後味が悪い、と読んでいく度に思うのだが
これは後味は悪くないのに二度と読み返したくならない。勿論つまらないせいでもなくて。
あとは関口君が鬱すぎ。
他人に情を注ぐということはその相手を憎むことと変わりのないことなのだ。
だから私は妻を心底慈しむことが出来ぬ。
とか言って。(でもここは結構好き)
図書館に鉄鼠がないからいけないんだ!ヽ(`Д´)ノ (榎木津風
京極夏彦『嗤う伊右衛門』読了。
これは京極堂シリーズではなくて、
四谷怪談の登場人物を用いた翻案による作品。いや大筋も変えてるかな。
互いを想い合っているのに、そして誰が悪いわけでもないのに
自分を変えることかなわずどうしてもすれ違ってしまう伊右衛門と岩。
というのが描かれています。
そして、伊右衛門にとって良い妻で居られないという苦悩ゆえに身を引く岩。
こういう、"好きだけど想いの成就よりも相手の幸せを願って自分を殺す"
という行動、非常に個人的にツボ。
と、悲しい恋愛譚であったのが最後の二十頁でいきなり京極節。
何故そう来る!?ファンサービス?(何) (´д`;)
京極堂シリーズでいうところの魍魎・姑獲鳥クラスで
ファンの間でもかなり評価の高い作品なのですが、
翻案のあり方ににやりとさせられつつ切ない心理描写に胸打たれる佳作であろうと思います。