2005年10月14日

真理と相反する条理に従服姿勢

コントロールされるのが嫌いである。
おそらく誰しもそんなもんだろうと思う。

コントロールというのは他人に何らかの圧力をかけて自分の思い通りに動かそうとすることだ。
自分に有利な状況をもたらすためにそれが行なわれる場合もあるが、
自分の主張の正当性を確認したいがために人をそれに従わせようとする場合もある。
こっちは悪気がなければないほど始末が悪いというやつだ。

「親の言うことは聞いておきなさい」というのはコントロールだ。
「あなたのためを思って」とかいうのはコントロールだ。
「煙草やめないと別れるよ」というのも別れたくないのに言ってる場合はコントロールだ。

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「人としてこう思わないのは信じられない」というのは「親の言うことは〜」式のコントロール。
権威・常識をかさにきて自分の主張の方が相手より正当であるが如く見せるもの。
「理解してくれないなんて悲しいよ」というのは「あなたのためを〜」式のコントロール。
悪意なきことをアピールする形で相手の罪悪感に訴え自分の意図に従わせようとするもの。

しかしどこからがコントロールでどこからはコントロールではないか、というのを
言葉ひとつの言い回しで線引きするのは正確ではない可能性はあるわけだが、
私は人に命令されるのが嫌いなこと山の如しなのでこういう言い回しに非常に過敏に反応します。
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何事にも自分の自由意志で判断を行なう余地が欲しいものです。

投稿者 narukami : 2005年10月14日 11:38 | トラックバック
コメント

圧力を受けた際に応じる応じないは自分で決める。
応じる場合も納得して応じるのではなく、損得勘定で応じた方が得と判断するか、逆に応じないと損失をこうむる(社会的に等)という判断の元やむを得ずという場合もある。

……はてさて、それらは自由意志ではないのだろうか。自由意志ではない「コントロールの結果」とはいかなるモノだろうか。

「誰かに傷つけられたと人を呪うのは、地に落ちている釘で足を傷つけられたといってその釘を呪うようなものだ。
……自分に対して自分自身より他に責任者がいるなんて変な話だよ」

Posted by: るー : 2005年10月18日 00:42

応じる応じないは勿論自分で決めるものとして
圧力がかけられているという状態の方は受け入れ難いのです。

自分の感情の責任を自分で取るという命題は形としては理解しているつもりなのですが、
それで行くと一体いつなら怒っていいのか
(人の言動によって負の感情が生じた際に、一体どういう場合ならそれを表現する権利があるのか)ってことが
よく分からなくなってくるのです。しばらくそれをテーマとして迷ってもいます。
まあつまり消化しきれてません。

で、現在のところは
・自分が負の気分になったときに
・できる限りその理由を人からも分かりやすいようにして(その過程で自分が「ちょっとこれは身勝手な理由?」と思った際は人にフィードバックしない)
・コントロール系の言葉を用いずに
・相手に「こう思ったけどどう」的に打診
という方向性で行きたいと考えているのですが、
(現実にはこの通りにできていない場合もありますが方向性はこんな感じです)
この方向性からしてどっか間違っててそれに自分で気づいてない状態だったらイヤだなぁとは思ってます……。

Posted by: ナルカミ : 2005年10月18日 01:56
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