| 暗い森 |
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鬱蒼とした森があった。
その森は昼のさ中においてもひたすらに暗く、生き物の気配はあまりに乏しく静かであった。道らしきものは数歩歩けばすぐに枝々に閉ざされてしまい、足を踏み入れる旅人の方向感覚を失わせ、あっという間に迷わせた。
森は迷い人を喰らうのを好んだ。とはいえ、現実には森はただの森であり、人間を襲ったりすることが可能だったわけではない。森に足を踏み入れ東も西も分からなくなった旅人は、生きて出られるのかという不安、進むごとに体力が削られていくという焦燥、どちらに進んだらいいかの見えなさ加減から来る苛立ちのそれぞれに絡め取られ、やがては足を踏み出すこともできなくなり森の中で朽ち果てるのが常であったが、そうした絶望を抱えて生み出される屍を滋養として、森はますます暗く栄えていたのである。
何を誤ったのか、一人の若者が今まさに森の中に居た。疲れ果てて足をひきずり、乾いた涙の跡が顔に残っていた。
俺はこの森を抜ける道をひとつだけ、知っていた。迷える若者に教えてやりたかった。疲れ果てた顔の若者がそれでも歩いていくのを追いかけ、息を切らせながら声をかけた。
若者は俺の声に驚いてこちらを振り返り、一瞬のあと失望をその表情に浮かべ、次いで吐き捨てるように、呟いた。
「……なんだ、蛙か」
俺はかつてこの森に迷ったとき、人の貌を捨ててでも生きることを選んだのであった。引き換えに蛙の姿を得るところとなり、陽の十分に射さぬ薄闇の中、雨を歓び虫を食んで生き延びた。適応することによって絶望からは解放された。森の中でも生きていけるという余裕は、人の目の高さでは見出し得なかった道を俺に見せ、やがて抜け道を発見するに至った。人から蛙の姿になりはしたが、誰とも出会わぬ森の中では不便を感じることは殆ど無かった。思索することすら人であった頃と遜色なく行なえた。俺の望みは想像以上に達せられたと言っても良かっただろう。ただ一つ、こうして森の中をさ迷う旅人に遭ったとき、それを抜ける道の一つを俺は知っているにも関わらず、おそらくは迷い人らが望むであろう形で示してはやれぬということを除いては――!
俺は肩を落とした。肩と呼べるものがまだこの身にあったならば、だが。
若者は何故か自分に向かって鳴き続けていた蛙に背を向け、再び歩き始めた。
「生きろ」それでも俺は声を振り絞り、若者の背中に向かって叫んだ。「出口はいつも、君の認識の外側にある。視点を変えることは決して君の敗北ではない」
しかし全ての言詞は蛙の鳴き声となって暗い森に吸い込まれていくのであった。 |