昨晩からなにやら随分暖かくなったというのに花粉症とはまだ縁が切れぬ模様。
疫神と闘い過ぎていい加減身体がボドボドなので薬投入。
睡魔と闘うのもそれはそれで疲れるのであまり飲まないようにしてるのだが。
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春だってのに頭の中で「たきび」の曲が流れてます。助けてください!
昨日は昨日で「福耳の子供」が頭の中で流れてたのでちょっとましになった気がしますが。
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自分の特徴として昔Z氏から指摘された、
「何を言っても盾突く」言動の片鱗を他人の中に見る。
あーこういう風だったらそりゃ話すの辛いわな。と感慨を覚えると同時に
それが人なればどう対応すべきかを少し迷う。
結局は「表向き普段通り」で落ち着くのだけれど。
これが自分であるならば
何を言われても盾突くとすれば
それは相手の言うことに素直に対応できないからで、
そんな状態自体苦痛だからあまり近づいて貰いたくない、となる。
故に嫌われてるならそれなりの心的距離を置きたくもなる。
もっとも、心理学的には
「嫌われてるのでは?と思うときは
自分が相手を嫌いなのではないかとまず疑え」と言われもするのだが。
んーんー。どうだろ。
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人のWEB日記を読むという行為について回る、ある種不思議な感慨について。
L氏がとうの昔に書いてしまっているのを教えて貰い
その明快な論に頷くも。
多分私が感じている
他人の思考を自分に容れるときの不思議さ、というのは
その論とはまた少し趣の異なる部分も含まれているのであった。
話者と自分との間に既に何らかの関係性が生まれている際に、
話者の思考に対して共感を覚えるということが
ある種の殆ど一方的な親密感を生み出す場合がある。
その話者から直接に自分へ示されたわけではないというのに。
或いはこれは普遍的事実ではなくて単純に私の性格の問題かも。
もともと"話者"と"表現されたもの"を切り離すことが不得手であるからだ。
(故に嫌いな人から批判とかされると全然聞けないときが。
ぶっちゃけ全然COOLじゃないんすそういうとこ。なんとかしたいんだけどね)
これじゃテクスト論の徒失格ですね(・∀・)
しかしそれは錯覚であり、また錯覚であることを認識することもできている。
そのため、現実の自分と現実の話者の距離感を意識せざるをえない場面が増える。
また、距離感の違いに齟齬を感じることを防ぐためなのか
表現されたものに対して十全な共感をすることに自分でブレーキをかける場合というのがある。
勿論話者には何ら責任はないが。
時々微妙。自分が。
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音楽には自らの中の空隙を埋めるものと
自ら音楽の空隙の中へ分け入っていくものの二種類がある。